今はもう食べる事は出来ない、そんな思い出の味ってありますか?
それに、そのジジババの畑でとれたトマト!どんなに新鮮な無農薬で作られたトマトなんかでも比べ物にならないくらい美味しくて、子供の時以来そんなトマトは食べた事がありません。
それに、叔母が冬になるとよく大鍋に作って分けてくれたおでん!味がしみてて、これもまねてはみるものの、まねのできない味で、私も母も残念ながらこの味が出せません。
今は、みんな他界してしまったので懐かしく思うだけで、食べる事は出来ない思い出の味になってしまいました・・・・
そんな、思い出の味ってありますか?
最新の発言20件 (全70件)
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ツナ卵丼
社員食堂の人気メニューでした。親子丼のツナバージョンです。その会社は今はありません。
トンカツチャーハン
同じく社員食堂の人気メニューでした。
ソースカツを具にしたワイルドなチャーハンでもちろんソース味。
こちらはまだあるかな。 -
あんこの入った焼き餅
小さい頃、年末に祖父母の家でお正月用のお餅つきをして、できたお餅を丸くするのを手伝っていました。普通の丸餅の他に、中にあんこ(これも祖母の手作り)を入れたお餅も作りました。白だけでなく、よもぎを混ぜたものも。
これを祖父が火鉢の上に網をおいて、その上で焼いてくれたものを食べました。
熱々のものをふーふー冷ましながら食べてました。
今まで食べた中でいちばんおいしいお餅でした。
忘れられない味です。
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学食のカツカレー
高校の時に食べた学食のカツカレー。
最下層の高校でどうしようもない学生時代だった。
2時間くらいかかるほど遠方で行くだけでクタクタ。やる気もない。
将来もどうでもいい。周りは能天気なヤンキー的なのばっか。
唯一、昼ごはんが楽しみ。
親友(彼一人だけ)と食べたカツカレー。
美味しかったなぁ。
放課後、食堂で友人とノートの見せっこしてたら学食の料理長?のおじさんが余ったカツを小皿に
入れてくれた。「よかったらつまんで」って。
オヤツ代わりに。
美味かったなぁ。
おじさん、元気かな。
もう30年前の話。 -
私の子供の頃は暖房用に火鉢がまだまだ田舎の家庭にはありました。
そこに網を渡して焼きながら食べた御餅、スルメイカ、酒粕など懐かしいです。
香りもよみがえってきます。
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先々月他界した祖母が、お昼によく作ってくれた、前日の味噌汁の残りで作ったおじや。
優しい味で食べやすくて、すごくおいしくて、何回もおかわりしました。
祖母の作ってくれるご飯は色々あったけど、これが一番好きだったな。
今自分でおじやを作っていて、他界した祖母の顔が浮かんで、ちょっと泣きました。
自分でもあの味が出せるようになりたいな。 -
・勤務先の売店にあった、地元の老舗総菜店の大きなコロッケ
・市内に昔からあったパン屋さんのサンドウィッチやロールパンにはさんであるシリーズ(いろいろあった。)
・同じくケーキ屋さんのロールケーキ
゜゜(´O`)°゜もう三つともお店ごとないの~。 -
中学は給食が無かったので
お弁当は1日おき、お弁当が無い日は
朝 売店でお金を添えて紙でパンを申し込んでお昼時間に売店で受け取る形式でした。
ロールパンの卵サンドが絶品でした。
コンビニは無い時代でした。飲み物はどうしてたんだろ…?
紙パックか瓶の牛乳かコーヒー牛乳の2択だったかもです。
選択肢が無くてもそれなりに美味しいと思い満足してました。
やっぱり昭和の高度成長期って良い時代だったのかな… -
高校の時購買で売ってたハムカツ。近所のお店の人が売りに来てました。確か一枚25円だったと記憶してます。
2限後から販売開始だったので、おやつにも買ってました。
店主は、あの時すでに白髪頭のおじいちゃん。今は販売してるのかなあ…。 -
昭和のナショナル(松下電工)の炊飯器で炊いた御飯。
この世で最も美味しい炊いた飯だと思います。
ブレーカーが飛ぶくらい電気喰うんです。
炊飯機能しかなく保温できないのです。
でもでもでも!そんなのカンケエねえ!と感じるくらいうまい飯なのです。
平成二桁年代までウチは使っていた。
あんまり大きな声で言えないけど、電気メーカーが漢字名から横文字(ローマ字)になるとダメになるのはホントだし、省エネ家電になってから、ごはん旨くないのよね。 -
高校の食堂で、ロールケーキ?ホットケーキの上にホイップを乗せて丸めた
ような物を凍らせたお菓子がありました。
アイスクリームな感じがして、美味しかったです。
今でもやろうと思えば出来るけど、思い出です。
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鍋で炊いたら美味しいですよ。 ごはん。
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私の母はそんなに料理上手ではなかったですが母の作った春巻きはとても美味しくて大好きでした。
自分も春巻きは作りますがちょっと味が違うんです。具材もほぼ同じなんですけどね。 -
昔ガストでハンバーグの付け合せについてきたポテトグラタンみたいなのが好きでした。もうないですがまた食べてみたいですね。
後おじいちゃんの家で作ってくれてた湯もりうどんでつけて食べるお汁がシンプルでしたが好きでした。まねしてもなかなか同じ味にはなりませんね。もう他界してるので同じ味付けは食べれないけど懐かしいなと思い出しました。 -
もう食べられない想い出の蜜パン
大田区羽田にあった「サカキパン」。昭和43年頃に食べていた蜜パン。山切りカットの食パンに黒蜜がたっぷりついていて、多分食パンの表面に黒蜜を漬けて作っていると思うんどけど...本当においしかった。また、食べたい。
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父方の祖母の作った焼餃子!
祖母は娘時代から住み込みで料理の修行を積んできた元料理人でした。戦後の焼け野原も経験し、夫を戦争で取られてしまっても、生まれたばかりの私の父を抱いて気丈に戦火をくぐって生き延びてきた人でした。
戦後、修行してきた銀座が焼け野原になってしまったので千葉県に渡り、そこで1階がお店2階が住居的な家を借り女の細腕で私の父と叔父を食べさせてきたそうです。
その祖母が引退して普通の家庭の主婦におさまった後によく私達孫に作ってくれた焼餃子がとても美味しかったんです!私も弟も、これまでどんな焼餃子を食べてきてもその味には適わないな…と残念に思ってきました。
もう一度食べたい。
ある日 母がそっくりな形の焼餃子をこさえてくれましたが喜び勇んで私も弟も口に運び、全く味が違うことにガッカリしたものです。
あ~もう一度食べたい!
なんでレシピを聞いておかなかったんだろう。
とんかつ用ソースも一升瓶に2本半ほどまとめて自分で作ってましたし、大正生まれの昔の人なのに「ワインビネガー」とか普通に言っててびっくりしたものです。 -
義母の煮しめ
義母が元気だった頃、度々自慢のお煮しめを大きな容器いっぱいに作って持ってきてくれました。
やや濃いめの味付けで私の好みではなかったのですが、息子と孫たちのためにたくさん作ってくれていました。
ある時長男があまり喜ばず食べなかったことをきっかけに、それきりになってしまいました。
息子たちが結婚した今、当時の義母の気持ちを思い切なくなります。もっと私が「美味しい美味しい」と言って息子にすすめればよかったと。至らなかった自分が申し訳ないです。
義母は数年前から入院中で意思の疎通も出来ない状態。コロナ禍で病室へも入れません。
もう一度あのお煮しめを心から美味しいと言って食べたいです。 -
大阪の北浜にあった三越百貨店のコロッケ。
菱形でちょっと甘くて美味しかったなぁ
母の実家が近く、子どもの頃は三越が遊び場だった。閉店してしまい遠い思い出です。
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大学の近くにあった中華料理店の大学いも
もう食べられない味といえば、大学の近くにあった中華料理店の大学いもです。
外が飴でカリッとして、中の芋がホクホクで絶品でした。
その中華料理店はよく大学のサークルの飲み会の場所になってましたが、この大学いもは、その飲み会が一番安いコースを選ぶと出てこないんです。
当時よく差し入れで行っていた私はこの大学いもが出ないとがっかり、出ると飲みごとそっちのけでずっと食べてました(笑)
その店は数年後になくなってしまい、今は食べれません。
時々大学いもは別で食べるんですが、絶対に味が違うんです。
あの大学いもはもう出てこないでしょうね…。 -
お婆ちゃんの家に泊まったときに作ってくれた豚肉カレーです。
あれ以上に美味しいカレーを食べたことはありません。 -
お婆ちゃんの家に泊まったときに作ってくれた豚肉カレーです。
あれ以上に美味しいカレーを食べたことはありません。
